二推し街道まっしぐら

オタクの壁打ちだ!

障害者の兄がいる

私には障害者の兄がいる。今、彼は社会人で、高校から紹介(?)された超超超ホワイトな会社で働いている。

 

電車とか萌え系アニメが好きなオタクで、だけど別に太ってないし、チェックのシャツをベージュのチノパンにINしてたりもしない。痩せ型で、お洒落に頓着こそないけどダサくもない。

 

あと好きなのは嵐と笑点とクイズ番組とゲームとチーズ、苦手なのは雷とトマトとナス。トマトとナス、私はむしろ好きなんだけど、兄に言わせればあの食感がダメらしい。チーズは私も好き。

 

そして記憶力がめちゃくちゃすごくて、学校の成績も良かった。言っても養護学校とか特別支援級の中での話だけど、持って帰ってくるテストはいつも90点代か100点満点。中学の頃に学んだ百人一首はたぶん、今も百首ぜんぶ覚えてるんじゃなかろうか。

 

さて。彼、障害者である。

 

話すことが苦手だ。自然な喋り口調、というものが彼にはない。普段から、かしこまった文体の本か、あるいは不自然に砕けて乱暴な感じの口調である。敬語も苦手だ。要はスラスラ喋れない。うまく説明できないけど、きっと知らない人が会話したら「ああ、障害者なんだな」と思うんだろうな、と思う。

 

障害者とは言っても「自閉的傾向にある」というだけの、軽度の知的障害だから、症状的には一般的に思い浮かべられる「障害児」よりよっぽど軽い。集団行動が出来る。会社にも学校にも行ける。意思疎通が出来る。

 

だけど、障害者手帳も持っているし、障害者だ。

 

障害者、ってなんなんだろうか。よく考えてしまう。「私の兄はナスとトマトが苦手な障害者です」という文、言い換えれば「私の兄はナスとトマトと話すことが苦手です」となる。私の場合。

 

それは個性として認められないのだろうか。普通ではないのだろうか。「普通」って、なんなんだろうか。多数派のことを言うなら、そりゃ兄は「普通」じゃないが。だって障害者だから。

 

そしたら、「個性」ってなんなんだろうか。私たちは多数派とか少数派とかよりも先に、個人なんじゃないのか。「個人」という確立された一つ一つが寄り集まったら「普通」になって、そこにたまたま入り込めなかった人は「普通じゃない」のか。

 

障害者に限った話ではないが、なんだそれ、と思う。なんだそれ。そもそも「普通じゃない」人たちはたまたま入り込めなかったわけじゃない。個人の集合体に弾き出されて、指をさされて笑われて攻撃される。

 

「普通」に取り込まれた個人は、もはや個人では無くなってしまっている。だって多数派を普通と呼ぶのだから、周りに合わせなきゃ普通じゃない。個人ではいられない。そこに個性はいらない。大勢の中で手を挙げていれば普通になれる。

 

「普通じゃない」を攻撃対象にすることが、「普通」であることの一番手っ取り早い証明なのだろう。多数派と同じ方向を向かない人を「敵」に設定すれば、確かに分かりやすい。簡単だ。

 

だけどそれ、必要か?と思う。私はまだ義務教育過程を終えていないけど、攻撃することで普通に属しようとする人が同じ教室にとにかく多い。同じ学校の、特別支援級に通う人たちを指さす雰囲気が確かにある。何かあれば、彼らは一つのイキモノとなって、障害者たちを食い散らかして、己の存在を証明するのだろう、と思う。

 

普通も異常も多数も少数もなくなってしまえばいいのに。個人が個人として個人を見ることができたらいいのに。兄の得意と苦手を、障害でなくて、誰もが個性として見てくれたらいいのに。

 

分かっている。いや、分かっていないかもしれないけど、知ってはいる。兄との生活では想像も出来ないほど重度の障害を持った人がいて、それはもはや個性と言えるものではなくて、その存在に家族や周囲の人がどれほど苦しまねばならないのか。

 

だけど何か、できることはないかと、探すことをやめてはいけないと思う。少し前、東田直樹さんの本を読んだ。そして確信した。障害者は人間だ。個人だ。個性だ。そこに意思がある。苦しみがある。得意と苦手がある。私たちと同じだ。

 

クラスメイトに、私と同じように障害者の兄弟を持つ子がいる。彼のLINEのステータスメッセージには、

 

「僕の兄を見つけても構わないでください。よろしくお願いします」

 

と、書かれている。

彼にこう書かせたのは、彼の兄ではないのだ。周囲の心無い人間か、もしかしたら、そんなことはあって欲しくないけど、彼の家族かもしれない。攻撃対象にされる兄を間近に見て、自分を守らねば、と。「普通」にならねば、と。こう書いたのではないか。

 

電車内や公共の場で、意味のわからない理由で騒ぐ人間の動画とか、やたら回ってきて笑いものにされてるけど、少しでも彼らの見ている世界を想像したことがあるだろうか。貴方が一億円を持っていて、それを電車で落としたら、そりゃ大慌てするんじゃないだろうか。大きな声で、誰か知りませんか、と言ってしまうんじゃなかろうか。別に一億円じゃなくてもいい。とにかく大切で、価値があるもの。私たちには理解できなくても、彼らにとっては本当に価値があるものがあって、それを落としたときのショックというものは計り知れない。そんなの誰だって一緒だ。そして障害者にとって、そのイレギュラーは、今にも死んでしまいそうなほど心を不安にさせるものなのだ。

 

少しでも想像してほしい。「個性」の生む自分との違いを、認めることを、認めようと努力することをやめてはいけない。ほんのちょっと調べてみるだけでもいい。障害ってどんなものなんだろう。名前だけ聞いたことはあるけど実際どんなものなのか、どんな種類があるのか、病気とは違うのか、治るものじゃないのか、彼らはどんな世界で、どんな価値観で、どういう風に生きようとしているのか。

 

障害者のことを好きになれ、愛せ、なんて言わない。ただ、攻撃しないでほしい。自分と同じコミュニティに属さない人でも、障害者である以前に、一人の人間だということを、忘れないでほしい。他人の個性は、己の存在を証明する道具ではない。

 

偉そうなことをブログなんて偉そうなツールでしたためている私自身も、本来なら人にゴチャゴチャ言えないくらいには勉強が足らない。そもそも人生経験が生まれたての幼児とさして変わらない程度しかない。テスト期間中なのに偉そうな文章書いてるただのクソガキだ。

話すことが苦手な兄がいるだけの、文章を書くこととチーズが好きな、人間だ。